平田 東助
(1849~1925)米沢信夫町に米沢藩士伊藤昇迪の二男として生まれ、安政3年藩医平田亮伯の養子となる。明治2年、藩命により大学南校に学び、明治4年岩倉遣外使節団に随行、ドイツに留ってベルリン大学で政治学、ハイデルベルク大学で国際法、ライプチヒ大学で商法を研究。明治8年日本人として初めてドクトル・フィロソフィーの学位を受ける。 明治9年に帰国後、内務省御用掛、大蔵省御用掛、太政官文書局長、法制局参事官、法制局部長を歴任し、明治23年貴族院議員となる。明治31年法制局長官兼内閣恩給局長・枢密顧問官に就任。明治33年「産業組合法案」成立に力をつくす。明治34年農商務大臣、明治35年男爵を授けられる。明治37年産業組合中央会々頭となり、産業組合運動の中心人物として活躍する。明治41年法学博士・内務大臣、明治44年子爵を授けられる。大正6年臨時教育会議総裁として、明治30年代からの懸案であった「学制改革問題」の決着に尽力した。大正11年内大臣、伯爵を授けられる。 大正14年(1925)没。