日本の近代化をどのような方向でつくりあげていくべきか。維新の元勲や識者たちは「日本的なもの」の伝統の上に洋学を接穂して、日本国の独立と近代化を達成しようとした。19世紀列強の英仏や露獨米に学ぶ明治人たちは真剣であった。帝王ウイルヘルム1世治下のドイツは、ビスマルク宰相とモルトケ参謀総長のもとでオーストラリア(1866年)とフランス(1871年)に快勝して国権と軍國の華を咲かせ、山県・品川・青木・山脇・平田・桂・加藤らを魅了してしまった。獨逸学協会は、大躍進する獨逸の国体と国風に親近感をもち長期留学した人たちがつくったのである。
獨逸学協会会長
北白川宮能久親王
獨逸学の象徴で、
獨協生を教えさとす所が大きかった。
明治14年9月18日 北白川宮能久親王を総裁に仰ぎ、獨逸学協会が設立された。
獨逸学協会の母型である獨逸同学会開催の手紙。平田東助から桂太郎宛。
(明治11年12月19日、国立国会図書館所蔵)
獨逸学協会の事務所。最初は 品川彌二郎 邸(九段坂上)内であったが、すぐに麹町区 上二番町15番地(青木周蔵子爵邸)に移り、明治16年10月には 五番町13番地 に移った。(明治28年、東京郵便電信局刊、国立国会図書館所蔵)