明治20年代の日本帝国は、近代制度の確立と国家社会の安定および産業革命の進展をみせた。伊藤や 山県 の指導する獨逸国権主義の路線が定着したし、日本陸軍の獨逸流近代化も成功しはじめていた。松陰の愛弟子・品川 を頭にいただく獨協は、とくに20年代の前半に長州閥系のメリットを充分に受けて発展した。超一流のドイツ人教師をもった専修科では10年代末以来、高級司法官僚への道を確保していた。専修科廃止後も旧制一高への全国一の登竜門であった。明治末・大正期に活躍する俊英が、20年代の獨協から幾人も巣立っていった。
明治24年ごろの協会学校全生徒。校舎脇に組み上げたみごとな足場と生徒たちの和洋とりまぜの服装、獨協生らの雄々しく意気盛んな風貌、ドイツ人教師3人の威風堂々たる容姿に注目。
日清戦争の戦勝記念行進をする獨協生。
獨協中・一高と名捕手として鳴らした子息(獨協から帝大法科大学卒業)の入学に関して、 大村 に手紙を出した矢野竜渓(明治28年か)。矢野は郵便報知社長、『経国美談』の著者で民権派であった。宮内省に入り、清国公使をも勤めた。弟は錦城学園創立者。
19世紀末の複雑な国際情勢の中で、多くのドイツ人が日清戦役に注目し、東亜唯一の近代国家日本の誕生に感服した。多くの親日家「ファンレター」が日本政府に寄せられた。
大村仁太郎 が 平田東助 をかついで結成したドイツ語普及と受験指導の講習会。
青木周蔵 の 大村 宛の手紙。日本におけるドイツ語教育のセンターになっていた獨協と、その実際の指導者 大村 の姿を示す。
初期の獨逸学教会学校の卒業生。後列左から菊地郡蔵(東日記者)、池山栄吉(大谷大教授)、森孝三(東海電灯重役)、芦百寿(外交官)、大村、巌谷小波、芳賀矢一(大村の盟友)、前列は左から平野耕輔(東高工教授)、内山寿升。明治34年11月3日、ベルリン。
東大教師・協会員グロートの獨逸語読本(協会発行)協会事務所はまだ麹町五番町十三番地。
明治24年ごろの獨協生写真。前列に獨逸人教師6人を認められる。個性的で向上欲あふれる獨協生の面構えをみよ。
大村 も愛読し日本青年に紹介したビスマルク伝記資料の一例。ビスマルクの政治的手腕と狡智な議会操縦術、国家利益第一の外交策略は、国権主義に染まり向上心の強い明治青年を魅了した。