「三太郎文法」の隆盛 -ドイツ語の獨協- (1)
白鳥庫吉が驚くような「人なみ勝れた語学の力と持ち前の励精」が日本における獨逸語教育の第一人者大村仁太郎を生んだ。活気あふれる挙止動作をもつ美丈夫は、品川に学んで三育の教育者としても磨きがかかった。苦学力行・精励刻苦の見本のような少年時代から抜け出て獨逸語教授となった山口小太郎は、少しも身辺をかざらぬ親しみ易い人物だった。いかなる生徒をも育てあげる熱心と忍耐をもっていた。確乎不動の人格と生真面目さをもち情宜に厚い谷口秀太郎は、教育と経営のすべてに無私の献身と奉仕をして生きた。この「三太郎」が日本の獨逸語教育を確立したのである。
山口小太郎編集のしゃれた語学雑誌。
明治38年1月号の語学雑誌のあいさつ。上段は一高教授・獨協教師のハリールのテキスト広告。
明治・大正・昭和の三代を風靡した「三太郎」文法の初版本。明治27年9月16日初版。右は「三太郎」の「獨文読本」第2、第34版(明治31年初版)。大正12年までで65版を重ねた。
ラテン文字と華文字の筆写体習字帳広告(明治20年代末)。いまでは華文字筆写体を解読できる日本人も少なくなった。
獨協関係者の獨逸語テキスト群。
山口小太郎の獨逸留学出発後の第一便(上海より、明治33年)。
明治20年日本で出版(益森英亮発行人)のドイツ語教科書(エンゲリン編の当時の標準書)。
大正中期の獨逸語専修学校広告。西小川町1丁目2番地の校舎地が東京中学内であることに注目。谷口獨協理事は、神田大火で焼き出された上野塾の後身・東京中学に、この分校の敷地と校舎を売却し、急場を助けた。逆にこの校舎を午後と夜間、借用して専修学校を続けたのである。