変転期輝ける目白台〜明治末から大正へ〜

明治35年晩秋、大火にあった神田西小川町の下町から目白台の青灰色の洋館校舎に移った。そのころは「音羽の通りを隔てて向うに見える久世山はまだ草原であって、雪の日にそこで雪合戦をした。雑司カ谷のあたりはまったくの田舎であった。胸突き坂を下りた所の江戸川の水もさほど濁ってはいず、少し川上にある染物屋の高い物干から幾条も垂れ下がっている布の色もあざやかに見えた。早稲田田圃もまだ残っていた」(津田左右吉)という。こんな光景を舞台にした獨協では、帰国した大村のもと、彼の最後の4年間の、三育を核心とする獨協教育の確立がなされつつあった。


新築洋館校舎の正面(明治36年2月)

獨協の恩人・山脇先生。幹事・商議員として尽した。夫人房子は山脇女学校をつくった。夫婦とも大村の親友。山脇の食事改善・婦人向上論は有名。山脇女学校長・短大学長は山脇馨氏。山脇穰(昭和20年卒)は山脇学園理事長。

明治35年11月、目白台に新築された校舎平面図。

明治44年12月のレーマン会議。明治3年来日以来、外語や開学当初からの獨協で長く教鞭をとった。中央レーマンの後は左から上野正雄、谷口、小笠原昌斎、後列右端は山口の獨協教師、前列和服は小波。

伯林留学中の大村宛の、山脇玄の手紙。西小川町校舎焼失後の混乱と目白台移転の苦心がうかがえ、山脇の獨協愛護の心持がはっきり読みとれる。

目白台校舎の正面図

幕末の江戸図 (秋元邸跡が獨協

明治前期の地図 (まだ目白新坂はない ・ 明治16年、参謀本部地図)

※このコーナーの掲載内容は、オリジナル写真集 「目でみる獨協百年 1883-1983」の内容と一部異なる部分があります。また、「獨協百年」(獨協学園百年史編纂委員会発行・全5巻)のグラビア、「獨協中学校・高等学校のあゆみ」(後援会発行)等の内容を活用・引用している部分があります。