隆盛期獨協学園〜200年に向かって〜

200年に向かって

かつて 天野貞祐 は「獨協学園の目ざす所は、知性に照らされた善意志と豊かな情操とを持つ上品な人間の育成である。そのためには、すべての生徒学生にそれぞれ人間としての自信と矜持とを抱かしめ、各自の天分を開発し、その長所を培養しよう。他日社会に出ては日日の生活に感謝と喜びを見出し、勤勉努力して社会に奉仕し、広く文化の創造に参与すること」と述べた。品川彌二郎大村仁太郎天野貞祐 という獨協教育の系譜は、科学に実業に学芸に開花してきた。百年は祝祭であるとともに、将来の発展に対する警告であり激励となるに違いない。


第16代校長・蝦名賢造 (獨協大教授)

獨協学園創立百周年の記念すべき歳に当り、私達はこれまで優れた先輩諸氏の苦労によって築き上げられた、豊かな有形無形の遺産に対し、深く感謝すると共に、これを継承し、更に次の時代に向って発展をとげるよう、努力したいと思います。また、天野貞祐先生により打ち立てられたユニークな人間教育論を、今日の複雑多様化した時代に適応させ、中・高一貫した人間教育理念の実践に取り組んで参りたいと、望んでおります。

昭和58年10月

ドイツ連邦共和国から日独親善の功労を認められ大十字功労章を授与された関理事長。獨協学園関係者では、石橋長英、大野精七(北大名誉教授・北医大学長)、高橋明、天野貞祐、佐々木隆興(京大教授・学士院会員)、小池辰雄、中野理(神戸市民病院長)らをはじめ他に何人もの同窓生や教職員が日独・日墺親善と文化交流に功績をもち、認められ授章している。

獨協学園同窓会機関誌。編集長は大正8年卒の北浜章(前東京教育大教授、元獨協中教師、校医)。左端は目白PTA会報。目白同窓会では事務局を長くあずかる太田資教諭(昭和19年卒)の功績が大きい。

水原秋桜子(明治42年卒・医博・俳人)の獨協医科大学校内の句碑前に立つ中井卓次郎医博(明治44年卒・医科大建設時の人事選考委員長・理事)と桜田正人(獨協大総務部長・参与・評議員・元天野文相秘書官・獨医大建設時の手続書類事務総括者)。

「水原秋桜子全集」

日独文化交流、とくに医学交流に大きな功績をみせる石橋長英・国際医学協会理事長(明治44年卒)。右は回顧録と写真集。初代獨協医科大学学長の石橋博士は、街の開業医としても小児科診療と疫痢治療研究に画期的な模範となったり、医学各部門の交流の会合をもたれたり、開業医の再教育機関をつくられた。ドイツ哲学の天野博士と並んで、日獨交流を土台とした獨協教育精神の展開の両壁である。

獨協医科大生の卒業後の、
目標になるべき学風であろう。

資料的にもしっかりした労作「五十年史」(名簿索引を入れて110頁。福島博・岩本経丸ら編集)と天野時代の「七十五年史」(165頁・村松定孝ら編集)。後者は「七十年史」(大久間喜一郎・永田巌・村松定孝ら編集)を土台にしている。

いかなる困難な時代にも日獨交流のために先頭にたって活躍した石橋博士が立案した日獨医学協定の調印(厚生省にて・昭和14年6月2日)。中央は握手するヘーデンカップ博士と石橋博士。二人の後ろにオット大使(肩章付)や沢田外務次官(中央)の顔がみえる。

※このコーナーの掲載内容は、オリジナル写真集 「目でみる獨協百年 1883-1983」の内容と一部異なる部分があります。また、「獨協百年」(獨協学園百年史編纂委員会発行・全5巻)のグラビア、「獨協中学校・高等学校のあゆみ」(後援会発行)等の内容を活用・引用している部分があります。