発展期栄光の協会学校〜西小川町時代の発展〜

大村仁太郎の活躍 (1)

少年天野がもし大村仁太郎に出会わなかったら、たぶん天野のカント哲学研究と教育家志望は実現されていなかったろう。大村は日本におけるドイツ語学研究の水準を一気に高めたばかりではなかった。学習院と獨協を土台に大をなした大村は、明治教育界の姑息で頑迷な技術と旧慣を、近代ドイツの思潮と教育実践をわかりやすく紹介しつつ、批判して克服した。家庭と父母それぞれの役割、教師の熱誠な姿勢、青少年への深い愛情と広い配慮の三つを大村は強調した。 品川彌二郎を通じて松陰精神に学びつつ、大村は獨協教育を実践したのであった。


大村の筆になる外語学校草案(明治29年)。日清戦役後の極東情勢は欧米列強の東侵に対抗して侵出する日本の動向を核心として展開した。ロシア語・朝鮮語・中国語の習得や、専門学術用の語学でなく、実践的に役立つ語学の教授をなによりも必要だと痛感した大村は、品川(国民協会会頭)を説得し、東京外語学校の設立を運動し、実現した。しかし反撥強く、校長になることはできなかった。

大村「日本におけるドイツ語」(留学中のベルリンで刊行)。以後、旧制一高などでテキストに広く活用されていた。蘭学以来の伝統をくわしく述べながら、日本近代化の基調として学習しはじめた獨逸学の発展を、功績者や制度、諸学校を中心に論述している。

「三太郎」文法は70版以上を重ね、数十万部を刊行。明治・大正・昭和の三代の知識人青年が一度は手にした愛用書だった。

大村(邨)の蔵書印

大村の三育(知育・徳育・体育)による獨協教育は徹底的だった。明治25年4月に第1号の出た「校友会雑誌」は生徒たちの自主性を生かしつつ獨協精神をもりこんだ中学生と専修科生の総合雑誌だった。目白台に移ってから「学友会雑誌」になった。

ドイツ留学中、ハンブルグ港見学(1901年)。前列右から2人目は大村、外国婦人をおいて中山久四郎(東洋史家、文理大教授)、白鳥庫吉(帝大教授)、1人おいて姉崎正治(東大教授)。

ベルリン(伯林)の大村たち。
右側は妹婿の白鳥(津田左右吉、早大教授・獨協中教諭の師)、立っているのは高橋高師教授。

ベルリンで日本人の意気を示す大村先生(明治36年1月20日の帰国の送別パーティー)。

3人の愛嬢や長男(謙太郎、東大を経て東洋史家、獨協中教師、イスラム圏研究家、スカルノの友人)宛の大村の伯林通信。こまやかな愛情あふれる絵はがき。

※このコーナーの掲載内容は、オリジナル写真集 「目でみる獨協百年 1883-1983」の内容と一部異なる部分があります。また、「獨協百年」(獨協学園百年史編纂委員会発行・全5巻)のグラビア、「獨協中学校・高等学校のあゆみ」(後援会発行)等の内容を活用・引用している部分があります。