前史獨逸学協会の誕生〜獨協学園の源泉〜

「獨逸学協会雑誌」第1号(明治16年10月15日発行)。表紙と第1頁。
当時流行の英・仏学に対峙するドイツ・プロイセンの学問・法律・政治・思想を吸収する総合雑誌(月刊)として生まれた。著名な「お雇い外人」ドイツ人の論稿も掲載されて注目された一流誌。

「獨逸語学雑誌」第1号(明治31年10月31日発行)。巻頭言は 大村仁太郎 主筆のもの。ドイツ語の学習を通じて、欧米の最先端の人文科学・自然科学・医学を日本にふさわしい内容と形において吸収するのが目的の雑誌であった。語学学習をはみ出た論説・評論も掲載され、近代日本の知識人青年に与えた影響は大きかった。

大村仁太郎 の大論文「獨逸語教授法」を巻頭にのせる語学雑誌第2巻第2号。(明治32年11月1日号)

「東洋唯一、独和新紙」と自負する語学雑誌。

加藤弘之 のドイツ語回想記。円内・同学先輩の市川兼恭(原平三稿「温和会講演速記録」63)。万延元年、藩書調書教授手習時代に二人は藩命でドイツ語を学習しはじめたという(語学雑誌は1899年10月1日号)。

幕末期のドイツ語学習の困難さを 加藤 は回想している。最初のドイツ文献翻訳は 加藤 のブルンチェリ訳だという(語学雑誌第2巻第3号)。

明治10年代の啓蒙思想家と学者たち(東京学士会院雑誌所収の一部)。

文学博士 ・ 加藤弘之 のドイツ文著作「強者の権利闘争とその展開」。社会進化論で国権主義を裏付けた。

絢爛たるドイツ帝国の成立(アントン・フォン・ウェルナー画)。1871年1月18日、プロイセン国王ウィルヘルム1世がドイツ皇帝になった日。普仏戦争に快勝(ナポレオン3世捕虜)したドイツはヴェルサイユの鏡の間で式典をあげた。左・壇上は左から皇太子(王権神授のウィルヘルム2世の父親)、皇帝、音頭をとるバイエルン国王ルートヴィヒ2世。中央、白い宰相服がビスマルク、右隣り横顔がモルトケ参謀総長。「ドイツ民族最良の日」だった。伊藤博文 ・ 山県有朋 ・ 品川彌二郎 ・ 桂太郎 らは、この隆盛をむかえたプロイセン国権主義と軍国主義に学びながら日本近代化を推進することを決意したのだった。

獨逸学協会の盛んな出版活動(協会雑誌の広告から)。
ラートゲンの名講義は当時の若手官吏や法科学生、獨協専修科生に人気があった。
ラートゲンとミハエリス「行政学講義」各論篇。

平田東助 ・ 山脇玄 らが深い影響を受けたブルンチェリは、ビスマルク風の近代主義と国権主義を組み合わせたスケールの大きい学者だった。山脇玄 と飯山正秀の紹介は正鵠をえていた(国立国会図書館所蔵)。

協会出版物として長く売れ学習された歴史学派ロッシャー。大村仁太郎 が協会の書記長であることがわかる。(国立国会図書館所蔵)

※このコーナーの掲載内容は、オリジナル写真集 「目でみる獨協百年 1883-1983」の内容と一部異なる部分があります。また、「獨協百年」(獨協学園百年史編纂委員会発行・全5巻)のグラビア、「獨協中学校・高等学校のあゆみ」(後援会発行)等の内容を活用・引用している部分があります。